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2003年08月30日

インタビュー : 東原朋成氏

2003年8月14日
JTPAニュースレター編集部、monthly meetingにTensilicaでチップ設計のエンジニアをされている東原氏をお招きしインタビューを行いました。

シリコンバレーにいる理由は「そこにはシリコンがあるから」という東原さん。自分の分野を極めたければ、そのメッカにいるべきだという信念を持ち、アメリカに滞在している理由は、あくまでもやりたい事がそこにあるからだけだと力説します。

同時に、技術者の技術を評価し、それを伸ばそうとする環境が米国には整っていることも、東原さんの活躍の影の大事な要因であったのではないかと編集部は感じました。

はじめに現在のお仕事は?
現在の会社は、Tensilica, 小さなスタートアップ企業で、チップの設計のエンジニアをしている。この会社のもつ技術にほれ込んでいる。働きやすい。こんなに働きやすい環境は初めて。アメリカへ来て、今年で14年。最初の5年はボストン、その後はシリコンバレーに在住。一貫して半導体、シリコンとそのソフトウェアに関することに携わっている。


大学から企業へ
日本の大学にて電子工学を学ぶ。 修士課程まで修了。
学生時代、1980年代より、半導体に関する研究に取り組んでおり、チップが世界を変えるという確信をもっていた。就職活動では、日本の会社とUSコンピュータ会社の子会社(外資系企業の日本法人)である、日本デジタルイクイップメント(日本DEC)より内定を得るが、チップ設計エンジニアとして日本DECに入社。


Why US Company?
一般的に日本企業では、採用後にどの部署に配属されるかは運に委ねられるが、この点が外資系企業では異なっていた。面接時に自分の将来の上司となるマネージャーと会い、気に入ってもらえると採用。自分は、半導体のエンジニアとしてやっていきたかったので、入社後のresponsibilityが明確になっていた点に惹かれ日本DECに入る。この当時、シリコンバレーの名前さえ知らなかった。
半導体のビデオコンプレッサーの開発に携わる。もともとハードウェアが専門であったが、ソフトウェアの知識もなければよいチップが作れないことから、ハードウェア、ソフトウェア両方の専門性を高めていく。

4年後、ボストンにある本社に1年間の予定で派遣される。実はこの当時、本人は気付いていなかったが、既に会社の状態は傾きかけていた。このボストンに派遣されている間に、日本法人ではダウンサイジングにより自分の部署がなくなり、半導体に関する部門はUSに移されることになった。この機に、日本法人を退職、US本社に再入社。
日本法人は、この当時、日本初の大量解雇を行った企業ということで話題となった。


ビザについて
1989年、US本社に入社後、3ヶ月でL1ビザからグリーンカードホルダーへ。会社もこのプロセスに非常に協力的。またボストン一の大企業であったため、当時はグリーンカードがとり易かった。


英語について
US法人に入社して3ヵ月後、1人でこつこつ取り組んでいたプロジェクト(研究?)を、vice presidentにプレゼンテーションする機会があった。その時の上司からのアドバイスは、以下の通り: 出来るだけ多くの資料をそろえ、ホワイトボードの前にたち、次々に説明する、間髪をいれず話すこと。

エンジニア同士のコミュニケーションの場合、一般的な意味での英語コミュニケーション能力は多少劣っていたとしても、専門的なボキャブラリーをもち、論理的に説明でき、そのorganizationでのcommunicationのcommon groundがあれば、いいたいことは通じる。要は、自分の専門性、技術のすごさ、uniquenessを相手にアピールできればよい。

このプレゼンテーションは成功。Vice presidentから、プロジェクトを進めよとの返事。自らプロジェクトリーダーとして10人前後を取り纏めることになる。リーダーになると、チームの外部からのメールの数がぐんと増える。vice presidentからもinquiryが頻繁に来るようになる。結果、英語を書く頻度が増え、writing能力が向上した。presentationについても、project reviewなどで、プレゼンテーションの機会が増え、実践を通して次第に磨かれていった。

ある日アメリカ人ボスから、ちょっとしたdiscussionのあとに「君はまだ日本語で考えて話している。英語で考え、同時に話すようになれば。。。」とつぶやかれたときに、はっと気付き、それからは英語で考える努力をした。


シリコンバレーへ、そして転職
その後、東海岸をベースにしていたこの会社は、技術部門 - パロアルト設計センター – を初めて西海岸に設けた。自分の関わる半導体部門もそこにあったので、シリコンバレーへの移動を希望。20人程度の枠しかなく、競争率は高かったが、自分の上司に「日本人はwest coastで働くべきだ」と主張。それが効果的に働き移動に成功。その当時、US法人で日本人エンジニアは自分1人。唯一の日本人ではあったが、エンジニアだったこともあり、不自由は感じなかった。先にも述べたが、エンジニアに求められるコミュニケーション能力があれば十分やっていけた。

この会社は当時、従業員10万を越える世界第2のコンピュータ会社であった。その後、DECはダウンサイジングを繰り返す。自分のプロジェクトがなくなる度に社内転職。ちなみにこの会社の給料はあまり高くなかった。

1995年、同僚がこぞってSGIへ移るに伴い自分も転職。SGIにはDECから入社した元同僚がたくさんいた。入った当時SGIは絶頂期。会社が下降線をたどりはじめる直前に入ったため、会社に入ってからすぐにprojectが次々につぶれはじめた。自分のボスも転職を決めてしまったし、彼からも次の会社を考えるようにと非公式にアドバイスされた。SGIには8ヶ月在籍。

ビデオなどに興味があったのでSony USAに転職。DECで培った半導体のビデオコンプレッション技術での経験が活きている。このときの転職も人脈による。個人的に自身の知り合いでbackground, expertise, interestも理解してくれているリクルーターから日本企業で働いてみるのもよいのでは?とSONY USAを薦められた。

SONYでは、Sr. Manager/Project Managerまで昇進し30人のエンジニアを抱える$50million projectをマネジメントする。

日本人であることがこの会社では強みとなった。Leaderになると、他のfunction(部署)とのやりとりが増えた。日本とのやりとりをスムーズにしたり等が評価され、次々にpromotionの機会を得て、短期間でproject leaderとなった。しかし、社内で上司の一人と、かみ合いが悪く、まったくの個人的な理由で転職をすることに。

そして、SGIの時の上司に推薦されて、現在の会社、Tensilicaへ。SGIには8ヶ月しかいなかったが、既にネットワークをもっていた。Tensilicaには、SGI出身者がとても多い。このようにネットワークを利用して転職する場合、Job Interviewというものはない。この会社はとても働きやすい。こんなに働きやすい会社は初めてと言ってもいい。


ネットワーキングとは
東原氏の転職は、どれもネットワーク、個人的な人脈によるものである。その会社にいるときにどのようなネットワークを作るかが重要。それがあれば、レイオフの後、一週間もあれば次の仕事がみつかるとのこと。そのためにやってきたことは、自分が何をできるのか?competencyを自分の上司、referrerとなる人に日頃からアピールしておくこと。また現在manager職についている、もと同僚との関係を維持することも大切。当然のことながら、Lunch, breakfastというのもそのために利用すべき。

Tensilicaとその技術について
http://www.tensilica.com/index.html
創業者はChris Rowen, Ph.Dである。 スタンフォードの学長John. L. Hennessy, Ph.DもAdvisory boardとして参画している。

Tensilicaはある半導体プロセッサーの技術をもっている。これはあらゆることに利用できる基盤技術であり、例えば家電、電話、ゲーム機器の性能を飛躍的にあげることができる。東原氏は、この会社のもつ技術にほれ込んでいる。聞いていて、専門性のある人にしか本当の意味でのすごさはわからないだろうと感じたが、とにかくすごいというのは、東原氏の語り口から伝わってきた。

このプロセッサーの技術は、そのまま製品開発に使えるものではない。確かにすごい技術であるが、任意の利用目的に対しては「帯に短し、たすきに流し」。

そこでTensilicaは、ある用途に特化したプロセッサーを売るのではなく、この基盤となるプロセッサー技術と、これを使ったソリューション開発のために必要なソフトウェア、具体的にはコンパイラなどのツールを開発して売っている。

社員番号は59番。入った時には、この会社が売る技術のベースはある程度出来上がっていた。現在の仕事は、この技術を使ってカスタマーが製品をつくるためのツールの開発。製品そのものをつくらない会社というのは、ものを作っているメーカーに比べるとそれほど仕事量は多くない。

個人のevaluationのシステムは特になし。社員はみな優秀。能力のない人物はいない。5人に1人はPhDをもつ。土地柄もあるが、スタンフォード、バークレー出身者がとても多い。平均年齢は37,8歳。新卒で入ってくる人は少ないけれども、教授からの直接推薦などで来ることもある。一時期は140人にまで社員数は増えたが現在は不景気の影響もあって100人。

社内で、カスタマー対応を行っているアプリケーションエンジニアのサポートをすることもある。自分が魅力を感じる技術の啓蒙活動のためには、なんでもやりたいと思うし、小さい会社ではフレキシブルに動くことも必要。しかし、自分自身はアプリケーションエンジニアになりたいとは思わない。しかし、自社のもつ技術のすごさを実感しており、この技術が世の中にどれほどのインパクトを与えるものなのかを知っているため、この技術を製品化する魅力も感じる。

実際に、この技術は徐々に浸透しつつあるが、新しい技術を使いこなすこと(応用すること)は大変であるし時間もかかる。自分自身、応用面の方に興味があるので、今後はこの技術の啓蒙、およびコンサルテーションを行うことにも興味がある。やはり自分の啓蒙する技術を使った製品を見てみたいと強く思う。


シリコンバレーにいる理由
自分がシリコンとソフトウェアに興味があるから。技術が好き。コアのテクノロジーをおさえているところで働きたい。

現在、アウトソーシングなどといって、Indiaなどに仕事が出て行っているが、出て行っている部門は、製造、量産技術など、つまり効率をあげるために起こっていること。技術が流出しているわけではない。あくまでも中心のテクノロジーはシリコンバレーにある。

もし家電をやりたいのであれば日本が一番よい。例えば、政治・金融・歴史・医学など、興味が別のところに移れば、シリコンバレーにはいないだろうし、今後自分の興味の対象が他のものに移った時には、別の土地へ移動する可能性もある。

何よりも新しい技術を生み出すこと、技術の中心にいることにenthusiasmを感じている。自分が惹きつけられる技術がなければシリコンバレーにはいない。東原氏はこの気持ちを満足させる手段としてシリコンバレーで生活している。

■インタビュアー:Chika Ando+JTPA Editorial

on インタビュー Posted by jtpa at 10:52 | Comments (0)

2003年08月26日

セミナー情報 : 「今企業が欲しがる人材 What’s Hot, What’s Not」アンケート結果

セミナー「今企業が欲しがる人材 What’s Hot, What’s Not」で、出席者の方々に書いて頂いたアンケートの集計結果です。

セミナーの内容について
満足度
・ 満足・・・31名(66%)
・ まあまあ・・・11名(23.4%)
・ 普通・・・4名(8.5%)
・ いまひとつ・・・1名(2.1%)
・ 不満・・・0名(0%)
  (47名解答)

本日のセミナーでよかった点(フリーアンサー)
・ セミナーの内容(トピック) ・・・10名
・ 採用側のことが説明されたのがよかった・・・7名
・ プレゼンテーションがすばらしい
・ 普段、聞く機会の少ないバイオ関連の話を聞くことができた
・ 運営、会場アクセス、時間・・・2名
・ ヘッドハンティングの実態、意外な情報が聞けた・・・4名

本日のセミナーで改善すべきと思われた点(フリーアンサー)
・ 食事 ・・・8名 #デザート・立食形式への要望
・ 会場が狭い・・・9名
・ 時間が長い
・ 質疑応答をもっと組み入れてほしい
・ 前半、後半のプレゼンの間に休憩が欲しい

今後のセミナーに対する要望(フリーアンサー)
・ 日本人向けのビザの話なども聞きたい・・・2名
・ 現状のシリコンバレーの経済停滞をブレイクするためのmotivationを持つ方のスピーチが聞きたい。
・ 世界の中における日本のあり方や日本と国外のjob marketの連携について興味がある
・ ハイテックの人材・トピックの比重が高かった。次回はバイオの分野についてもっと聞きたい。
・ 実際に転職に有効な技術例などを知りたい。
・ 注目を集めやすいResumeの例について知りたい。

上記は、フリーアンサーの回答をカテゴライズしたものです。


■ 参加者の情報
ご職業
・ 掛け持ち(エンジニア/研究者、エンジニア/マーケティング)・・・2名(4%)
・ エンジニア・・・23名(48.9%)
・ 研究者・・・3名(6.4%)
・ マーケティング・・・4名(8.5%)
・ 学生・・・3名(6.4%)
・ その他・・12名(25.5%)
  (47名解答)

立場
・ 米国企業勤務・・・25名(52.1%)
・ 日本企業駐在員・・・10名(20.8%)
・ 留学(派遣)・・・3名(6.3%)
・ 留学(私費)・・・3名(6.3%)
・ その他・無回答・・・7名(14.6%)
 (48名解答)

転職経験
・ 日本で・・・10名(21.3%)
・ USで・・・14名(29.8%)
・ なし・・・19名(40.4%)
・ 両方で・・・4名(8.5%)
 (47名解答)

総評:
ネットワーキングの時間、機会をより多く求めている参加者が多いことが印象的。ネットワーキングのしやすい会場レイアウト、進行、食事のスタイルなど、改善の余地があると思います。
バイオ・ハイテックの間で自分と異なる分野への関心がうすい方もいればそうでない方もいるようです。
inspirationalなトピック、スピーカーを希望する方もいれば、より具体的、practicalな話に興味がある方もいます。

アンケートにご協力いただいた皆様、ありがとうございました。
By JTPA Seminar Coordination担当 安藤 知華

on セミナー情報 Posted by jtpa at 07:38 | Comments (0)

2003年08月12日

インタビュー , コラム : 私が米国の建設会社で働いている「長い」経緯

8年ほど前、日本で設計事務所で勤務中、「コンストラクション・マネジメント」という言葉を聞きました。日本には存在しない職能で、単語のとおり、建設を施主に代わって「マネジメント」するという仕事です。施主がコンストラクション・マネジメントを利用すると、建設費は下がり品質は向上され、工期も短縮されるとのこと。当時、日本ではゼネコン絡みの汚職が問題になっており、USTR(US Trade Report)までもが日本の建設費の高さを指摘する始末でした。どんなに誠実に設計をしても、設計者の立場では施工費をコントロールすることは出来ません。そんな時期に施工費について悩みをもつようになっていた私は、自然とコンストラクション・マネジメントという職能について学んでみたいと思うようになりました。

私はCM(コンストラクション・マネジメント)についての独学を続け、次第にCMの実態が見えてきました。MBAに見られるように、アメリカ社会では何事にもマネジメントの価値が重視されています。マネジメントを直訳すると「管理」になりますが、私なりに意訳すると「構造的に計画して実行させる力」となってしまいました。才能に関係なく、マネジメントが誰にでも学べる方法論として確立されているのが米国だったのです。さて、日本でCMを学ぶ事はできないので、コンストラクション・マネジメントを産んだ本家本元である米国に行かなくてはいけません。

学校の選択は、インターネットや、フルブライト奨学基金のライブラリーを利用したり、実際にカタログを請求したりしました。しかし、最終的には大学の教授に電話をして質問するのが一番早い、ということに気がつき、毎日朝一番に起きては電話攻撃に明け暮れました。西海岸の大学にターゲットを絞った理由はいくつかあります。まずは、西海岸は建設については東海岸と比べても前衛的で、かつ、汚職などの問題が少ないので、ゼネコン汚職を見疲れた私にとって、新鮮なのではないかと思われました。加え、西海岸で利用されている建築法規のUBC(Uniform Building Code)は日本の建築基準法の元になったものであることも、馴染みやすさを考えた上でこれは大きな利点でした。

数多い大学の中で、独特な5年間CMプログラムで評価の高いワシントン州立大学は際立った印象をもっていました。ワシントン州立大学は決して一流大学ではありませんが、建設についてはとくに強い学校のようでした。特に興味深いのは建築学部、インテリア・デザイン学部、ランドスケープ学部とのコラボレーションによる、あくまでも実務を想定した授業です。この独特なプログラムを実現させるために大学はInterdisciplinary Design Institute設立し、そのために最新鋭の新校舎を建設しました。この綺麗な新校舎もこの大学に私が決めたひとつの要因であったことは隠せません。最後に、キャンパスが田舎という設定も私の限られた予算にとって大事な要素でした。生活費は2ベッドルーム、2バスで月に$400といった安さで、ルームメートと割ると、家賃はなんと食費以下といった安さでした。

入学について大学に連絡をしたところ、私は既に日本で建築設計の学位を持っていて実務経験もあるので、建築学部の大学院に行くことを薦められました。大学院のプログラムと学部のプログラムを比較した結果、敢えて学部に戻り、一から勉強をしなおすことにしました。それは、私の本来の目的は、CMの仕組みを学ぶことでしたが、同時にCMを産んだ米国社会の背景を詳しく知っておく事でもあったからです。ある学者が、その国を一番早く学ぶには、その国の小学校の教科書を読破することだ、という意見も耳にしたこともありました。基礎を学び直すのが目的ではなく、米国のことを効果的に知るために、どうしても学部に戻らなくてはいけなかったのです。大学院で学ぶ問題点にも触れました。まだ日本にいる間、米国の大学院で2年間だけ過ごした日本人何人かに会ったことがありました。彼らの多くが、図書館と研究室を他の留学生と往復する毎日を送り、米国社会の基本を学ぶ機会を持てなかったと愚痴をこぼしていました。これが一般的な例だとはかぎりませんが、こういった大学院留学生が多く存在していることも確かでしょう。加えて、私が大学院で専門分野を深めることに当時ほとんど興味を持っていなかったことも、わたしが躊躇なく学部に戻れた理由のひとつでしょう。

結果として他の学生と比べて10歳も年上の学部生として大学も戻ることになりました。一度、社会に出ているおかげでしょうか、法律、会計など全ての基本的なクラスでも日本社会との比較で新鮮に学ぶことが出来、想像以上に深く米国社会を学ぶことが出来ました。契約社会として法の力が強い米国では、常に全てのことについて公平さが重視されます。「ドンブリ勘定」の日本に対して、「適正価格」の米国、という比較を良く私は使います。建設がマネジメントされれば、施主は高品質な建物を適正価格で建物を建てることが可能でありながら、施工会社も低くても確実な利益を得ることが出来るのです。日本式のドンブリ勘定方式は、建設費を吊り上げたばかりか、汚職の温床となってしまっていたが事実でした。繰り返すと、CM業とは高品質な建物を適正価格で建てるために「建設を裁く」職能だったのです。CMの局面も建設に関する工程管理や品質管理、施工技術だけでなく、管理会計、経営、マーケティング、法、人事などと広範囲に拡がっているためか、ほぼ50%がビジネスのクラスと関係を持っていました。コンストラクション・マネジメントの「マネジメント」という学問は、ビジネスと共有されているのも印象的で、改めて「マネジメント」の分野を超えた価値をよく教えられました。実際にCMの学生の多くはビジネス学部とDual Degreeを取得しており、中にはそのままMBAに進む学生もいました。

当初の目的では、CMを学んだら日本に帰る予定でしたが、学校の授業だけで実務を知らなくては日本で紹介するCM業の内容も浅くなってしまう危惧もありました。そこで在学中ながら、就職活動を始め、なんとか学校の近くのRoen Associatesというコンストラクション・マネジメント会社でパートタイムの仕事を見つけました。結果として仕事が非常にいそがしくなり、卒業直前の1年は、週のほとんどを働いて過ごす事になりました。仕事の内容は、施主に代わって建設工程と工事費の管理、設計事務所のために設計見積もり、設計図面の検査などがありました。既に設計経験のある私にとって、図面や仕様書のチェックなどは比較的楽なものでした。しかし同時に、日本と米国の建設、設計の違いを実務を通してよく学ぶことが出来たのは大きな利点でした。学校に関して、卒業の1年前は、専門性をより高めるため、レクチャー方式の授業はほとんど無くなり、課題中心の授業になります。ですから、学校には週に1日か2日、課題の進行状況のチェックに顔を出す程度になります。学校は24時間開いているので、仕事が終わってから深夜までを課題の時間に当てることが出来ました。

CMを学んでいるうちに、CMという学問そんなに単純でないことを実感します。まず、CMとは、あくまでも施主の利益を守るのが仕事であり、この職能は基本的に米国全土で効果的な職能として確立されていることは良く理解できました。しかし、コンストラクション・マネジメントの「マネジメント」が限りなく多様であることも知ったのです。自動車の製造と異なり、建設とは、契約方法、土地、設計、施主、法規、規模、コンサルタント、下請けがプロジェクトごとに毎回異なります。そのため、建築の生産性の向上を方式化するのは「不可能」とまで言われてきました。そういった建設のプロジェクトは非常にダイナミックであり、マネジメントの技能が非常に重要視されます。全てのプロジェクトにはそれぞれ異なるCMの方式がデザインされなくてはいけないというのがCMのあるべき理屈でもあります。

そして最も課題なのは、建設における生産管理です。自動車製造のように方式化できない建設をどうやって効率よく行うか、というのは人間が建物を建て初めて以来の悩みでした。いい加減なCM会社になると、ただ単に施主の代行で財布の紐の管理をしているだけで、まったく建設に関与しないところもあるくらいです。大学の半ばで、私の信じるCMとは、プロジェクトの経営上の管理に限らず、スケジュール管理を含めたトータルの生産性管理であることに気づきました。気の合う同級生達と深夜の勉強会を通し、「建設をマネジメントするとは何ぞや」という問答を続けましたが、議論は拡がる一方。議論はプロジェクト・マネジメントに関する一般の知識から、最新のクォリティ・コントロール論まで飛躍する始末でした。時には議論は建設の生産性を本質的に上げるためには、建築設計から向上されなくてはいけないという内容にまで発展し、教授はそういった我々のためにDesign-Build(設計施工)を学ぶ特別な夜学のクラスをわざわざ作り上げてくれました。

Hands-Onで建設自身を様々なプロジェクトを通じて学ぶことが建設の生産性管理には必要だと知った私は、卒業9ヶ月くらい前くらいから、本気で建設会社を探し回り面接を続けました。アメリカの大学と企業のつながりは強く、学校で行われたキャリア・フェアなどを通じて多くの会社と知り合う事が出来たのも就職活動には大きなプラスでした。景気の後押しもあり、働いてみないか、と声をかけてくれた多くの会社の中から、シアトルでは歴史があり最も評価の高いSellen Construction、そしてCMを得意とする大手のTurner Constructionと、シリコンバレーで生まれた若手ながらカリフォルニア最大の建設会社であるDPR Constructionという3つにターゲットを絞ります。

常に新しい建設の方法を模索しているDPRと不思議とお互いの目的が合致していたのがDPRに決めた理由です。人間が生まれて最大の発明の一つはコンピューターだといわれます。DPRはそれに習い、おなじシリコンバレーのハイテク会社達のようにコンピューターを駆使することによって、プロダクティビティを上げようという方針を持っていました。そして、いままで不可能といわれた建設の生産性の向上は、莫大な仕事量を短期間でこなすことのできる、コンピューターというツールで初めて可能になることにも気づいていたのです。例えば、DPRはコンピュータのレンダリングと時間軸を融合した「4Dモデリング」という方法で、立体的に工程管理を行うような努力をしています。そういったDPRの性格に加えて、この会社の、いままでの古臭いゼネコン体質を破り、何にも対して誠実であろうという態度がとても私の気に入りました。個人的には、施主がシリコンバレーのハイテク会社ばかりであり、そういった会社から今一番のハイテク・トレンドについて学べるのではないかという希望もありました。

普通、日本でゼネコンに就職すると、現場監督の補佐で測量を手伝いしたり、「下積み」が何年も必要になりますが、DPRの場合、エンジニアとして就職しても、それは既にマネージャー候補であり、初日からプロジェクト・マネジメントのイロハを教えられます。上記の通り、マネジメント能力が建設には必要だと分かる理由がこれです。トレーニングでも、建設技術に加え、施主との関係改善や、下請けのコントロールのしかた、仕事の見つけ方、ネットワーキングの仕方、リスク回避の方法などなど。私が働いたプロジェクトで、総工費が100億円以上ある巨大プロジェクトがありましたが、プロジェクト・マネージャーはなんと27歳の女性。若くて経験が浅いため、彼女の建設についての知識には限りがありましたが、会社は彼女のマネジメント能力を高く評価したのでしょう。実際に彼女は施主との関係を上手に保ちながら、会社に確実な利益をもたらし、現在は30歳にしてオフィスのオペレーション・マネージャー(取締役)まで昇級してしまいました。

私は現在まで、シニア・エンジニアとして、数々のプロジェクトをこなして来ました。しかし、DPRがいくら前衛と言っても、米国のゼネコン業界はいまだに白人社会であり、まだまだ外国人の人口は少なく、言葉の壁は一向に低くならないのが頭痛の種です。それでも、実力でしか人を測らないという米国社会の体質は建設界にもやはり生きつづけており、自分がやればやるだけ評価されるのも事実です。逆に失敗すれば、いつクビになるかわかりませんが、成功すれば評価の度合いは日本の比ではありません。例えば、就職してすぐ、中途で遅れをとっているプロジェクトに参戦してスケジュールを救ったことへの評価は、勤め初めてたったの6ヶ月で20%の昇給という結果に表われました。このような「やればやるだけ評価される」という環境での毎日の仕事はスリルがあり、限りなく刺激的です。自分はいまだに「日本で産まれ育った日本人」という米国建設界では異端な存在で、「自分は米国社会に属している」という意識がまだまだ薄いままなのはいまだに事実です。しかし、実力社会、競争社会の持つ緊張感が自分の性格ととても合致していることも、私が無意識に米国に長居してしまっている理由なのかもしれません。

いくら米国社会と自分の相性が良くても、「日本に帰る予定か?」という質問について、「可能性は半々ですね」と答えるのが癖になってきました。日本が自分にとって産まれ育った国であることに加え、いまだに自分が学んだことを日本に紹介するのは自分の義務だと信じているからでもあったからです。今でも新日本建築家協会(JIA)や日本の建築家達とは連絡は取りつづけており、いずれは書籍や実際のプロジェクトといった形で米国のCMを紹介する予定です。コラボレーションのような形で米国型CMを日本に持ち込む方法も模索中です。建設の生産性向上についてのアイデアも、自分の内部ではちきれるほどに膨れ上がっています。現在は仕事の外で、そういった生産性向上を目指すグループと連絡をとったり、同じ業界で働く友人と集まって勉強会を行ったりしています。

米国の「マネジメント」への執着は、だれでも方法論を学べばサクセスできるという合理的な考えの上に立っています。これはアメリカ社会の姿勢そのものであり、才能なんて関係なく、「ちからわざ」で自分をかなりのレベルまで向上できるのがこの社会であることも知りました。ただしリスクもあります。レイオフや転職が当たり前の米国で、私は5年後に何をやっているか、まったく想像が出来ないのが事実です。次の原稿の内容はこれとは全く異なる内容になっているかもしれません。この原稿内容について質問のある方は、お気軽にmozant@dprinc.comまでE-mailをお送り下さい。

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戸谷茂山  DPR Construction, Inc
筑波大学芸術学科建築デザイン学部卒業後、日本で師である鬼頭梓先生と石井和紘先生から設計を実践を通じて5年間学んだ後、米国に渡る。ワシントン州立大学のInterdisciplinary Design Instituteでコンストラクション・マネジメント学を修了。卒業後ワシントン州のコンストラクション・マネジメント・ファーム、Roen Associatesにてコンストラクション・マネージャーとして勤務、設計と施工のコンサルティングを行う。その後、カリフォルニア州に移り、DPRコンストラクションのSan Jose Officeのスタートアップに参加。サン・マイクロシステムズの数々のミッション・クリティカル・ラボのデザイン・ビルド・プロジェクトを担当、カリフォルニア大学のコンピュータ工学部新校舎などを手がける。最近は建設におけるプロダクション・マネジメントの一つとして知られるLean Constructionを研究中。

on インタビュー , コラム Posted by jtpa at 21:02 | Comments (0)