2003年9月18日
JTPA ニュースレター、マンスリーインタビュー第2回目に、Agilent Technologiesで、半導体チップの自動計測器(ATE)の開発に携わる松宮氏をお招きし、インタビューしました。
松宮氏は、1つの会社でキャリアを着実に築いてきたスペシャリスト。その間、用意されたレールを歩いてきたわけではなく、アプリケーションエンジニアからアーキテクトへという、ユニークなキャリアをデザインされていらっしゃいます。
松宮氏とcollaborateしてみたい方は、技術交流分科会にもぜひご参加ください。


――現在の仕事について教えてください。
「大手計測・分析機器メーカーのアジレントテクノロジー(Agilent Technologies)で、半導体チップの自動計測器(ATE)の開発に携わっています。アジレントは1999年11月にヒューレット・パッカードからスピンオフした、シリコンバレーを代表する会社の一つです。具体的にはATE用のPCボード等を設計・検証するハードウエア・デザイン・エンジニアというポジションです」
――どういうきっかけでアジレントに入社したのですか。
「もともと、1990年に新潟大学電気工学科を卒業後、横河ヒューレット・パッカード(YHP)に入社しました。YHPを選んだ理由は、一般的な大企業よりも自由度が高く、自分を成長させてくれると思ったからです。同社は日本ヒューレット・パッカードに社名変更した後、計測器部門などがアジレントテクノロジーとして分離しました。私の所属していた半導体テスト事業部はアジレントに移ったため、私も日本のアジレントに移りました。そして、2000年9月にアメリカのアジレント本社に移籍したのです」
――アメリカの本社に移籍した理由は。
「学生時代からアメリカに限らず、一度は海外に住んでみたいと思っていました。移籍する前のアジレント・ジャパンでの私の担当は、アメリカの工場で開発された機械を日本の各顧客向けにカスタマイズしサポートすることだったのですが、なかなか約束した性能が出ず、くやしい思いをしました。それで、自分自身の手で新しい機器を開発したいという思いが芽生えていったように思います。そうこうするうちに、99年3月から9ヶ月ほど、アメリカの工場側で仕事をする機会を得ました。担当していたシステムのハードウエアの不具合を解析し、改善するのが目的だったのですが、そのときの仕事がアメリカの工場側マネージャーに認められました。出張から帰ってしばらくしてから、アメリカ工場で新しいハードウエア・エンジニアを求人していたので、応募。その後のアメリカ出張の際に面接を受け、採用が決まりました」
――シリコンバレーに来て、まず驚いたことは。
「こちらへ来てすぐに、参加する予定だった高速メモリー・テスターの開発プロジェクトが打ち切りになりました。この製品の市場性がないと会社が判断したことが理由でしたが、急きょ、フラッシュ・メモリー・テスターのプロジェクトに参加しろと。プロジェクトの廃止や変更があっという間に決まるシリコンバレー流のやり方を痛感しました」
――日本でのキャリアはこちらで役立ちましたか。
「私は日本ではお客さんと直に接する仕事に携わっていたので、顧客の要望や、実際に私たちが開発する機器がどのように使われているかを理解しています。最初から研究開発だけに従事しているエンジニアにはない強みです。この経験の差を設計に反映できていると思います。そもそも、アメリカ工場側に高く評価され、アメリカに来るきっかけとなった不具合分析の仕事も、品質に厳しいことで有名な日本の顧客と仕事をしてきた経験があったからこそできたことです」
――アメリカに来てよかったと思いますか。
「日本でのお客さん相手の仕事をビジネス・プロセスの下流とすると、現在の製品開発の仕事は上流側。アメリカに来ることによって、ビジネスの両端を経験でき、よかったと思います」
――現在のビザ・ステータスは
「スペシャリストとしての『L1B』です。アメリカに来た当初はプロジェクト・マネージャーとしての『L1A』だったのですが、INS(米国移民帰化局)から変更を求められました。グリーンカードを申請中です」
――短期・長期のキャリア・ゴールはありますか。
「90歳でも現役で、その時点で自分の人生の一番の高みと思える仕事をしていることが最終目標ですが、具体的に何をやりたいのかはまだ見えていません。
しかし、ハードウエアをやっていると必ずソフトウエアの助けを借りなければならなくなるし、ソフトウエアの仕事をしていればハードを勉強しなくてはいけないと感じます。また、アプリケーションがわからなければ目的が曖昧になります。ハードウエアのデザインの仕事はまだまだ自分の満足する域には達していないのですが、徐々にソフト側にも軸足を移していければと考えています」