2003年10月16日
JTPA ニュースレター、マンスリーインタビュー第3回目は、シリコンバレーのベンチャーでBusiness Developmentに携わる村山氏をお招きしました。
村山氏は、日本の銀行員をキャリアの出発点としながらも、スタンフォード大で
のMBA取得を契機にシリコンバレーに残り、戦略コンサルタントの仕事を経て
現在はスタートアップで働かれています。


(インタビューア、以下I)今回は「文系代表」としてシリコンバレーでご活躍され
ている村山さんにお話を伺います。よろしくお願いいたします。まずはじめに、今のお仕事について教えてください。
(村山氏、以下M)私はシリコンバレーのあるベンチャーで、Director of Business
Developmentをつとめています。会社は製薬、バイオテクノロジー、メディカルデバイスといった業界に対し、インターネットを活用した様々なマーケティングソリューションを提供しています。社員は20数名ですが、年内には30名近くに拡大する勢いです。CEO直属で、他企業との提携や様々な外部のベンダーとの提携関係作りと交渉をするというのがメインの仕事ですが、その他にも「遊軍」として「重要だがスタートアップなのでフルタイムの担当を貼付ける事のできない仕事」を火消し職人のように手掛けています。(笑)
(I)はじめてシリコンバレーにこられたきっかけは何だったのでしょうか?村山さんは経済学部出身で、しかも日本では銀行員だったというシリコンバレーのプロフェッショナルとしては数少ないバックグラウンドなので、非常に興味深いです。
(M)「なんで君みたいなのが?」とよく言われます。(笑)そうですね、そもそもの出発点はスタンフォードに来るよりずっと前、親の転勤で幼稚園から小学校低学年までをアメリカで過ごした後、まるで初めての外国のように日本の生活を経験したことにあると思います。「帰国子女」という言葉もまだ無い頃でした。その時の体験については以前ニュースレターに寄稿させていただいた「アメリカの小学校」というコラムに書いたのですが、そのときのトラウマ(笑)で「大人になったらまたアメリカに行く」と思うようになりました。とはいえ、中学・高校・大学と普通に日本の学校に行って、留学などはあまり考えなかったあたり、さほど強い想いではなかったようです。(笑)
大学を卒業した時はバブル経済の頂点で、あまり深く考えずに銀行員になってしまったのですが、その理由も、恥を忍んで申し上げれば、「これから日本は金融大国となるから、金融機関に入れば海外に積極的に出してもらえる」といった他力本願のようなものでした。そんな不純な動機だったので、罰があたったのでしょう。(笑)最初の仕事は窓口で「金融債」なるものを売る仕事でした。最初は「いらっしゃいませ」に始まる接客、札勘、駅前でのティッシュ配りといった内容でしたが、上司も「こいつには向かない」と思ったのでしょう。途中から部内の事務企画的な仕事に代わり、窓口業務フローの改善や部内の組織変更といった仕事をしました。
そうこうしている内に、同期入行の仲間には銀行の派遣制度でビジネススクールに行く人もぼつぼつ出始めました。私も入行時点から留学したいと思っていたのですが、私は2年目で異動していたので、なかなか選抜試験を受ける事ができず、やっと受けた一回目も落ちてしまいました。ただ、その異動した先での経験がなければ、留学していたとしても今の人生は歩んでいないような気がします。
なぜかと言えば、異動した部署で、外国の金融機関や世界銀行などの証券発行体と仕事をするようになり、しかもそのビジネスが銀行内ではマイナーなビジネスだったので、結果的に自分のニッチを作る事ができ、若造ではありましたが銀行を代表して海外のビジネスマンとやりとりをする経験を得る事ができたからです。その結果、海外の証券市場や企業活動につきいろいろ学ぶ事ができ、また「子供の時に身に付けた幼稚な英語でも、ビジネスってできるもんだな」という妙な自信を得ることができました。さらに、たぶんこれが決定的だったのですが、私の業務はITなくしては成立しないものだったので、ユーザー代表としてコンピューターシステムの構築にも関わることができました。そこで、ITによるビジネスや生活の変革可能性に非常に強い関心を抱くようになりました。特に決め手になったのが、その時であったとある米国の銀行のバイスプレジデントが言った「金融というのは情報処理産業だ」という発言です。
それまでシステムは業務の自動化をするための道具と思っていたのですが、ITの活用によってそれまでできなかったことができるかもしれない、などと思うようになりました。
ずいぶん長い前置きなのですが、そんな背景があったため、いざ派遣留学生の試験に受かったところで、自分はいわゆる「金融のプロ」を目指すのではなく、シリコンバレーに近いスタンフォード大学に行き、ビジネスにおけるITの活用の仕方を学ぼうと思ったのです。ビジネススクールのアプリケーションエッセイにもそういうことを書いたのですが、当時日本の銀行員でそんなことを志望動機にした奴は珍しかったのでしょう。入れてもらえました。だから、銀行内での仕事の回り道がなければ、今日ここにはいないと思います。
(I)なるほど。それがシリコンバレーに来られたきっかけだった訳ですね。 そうして留学され、MBAを取得すると同時に派遣元の銀行を辞められ、アメリカに単身残る決意をされた訳ですが、それは大変大きな決断でしたね。
(M)はい。小心者の私としては生涯最大の決断でありました。(笑)言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、最初ビジネススクールに入学した時点では辞めるなどということは全く考えていませんでした。翳りは見えていたと思いますが、私のいた銀行は凄い人の一杯いる、まだまだ良い組織でしたから。だからこそ辞める決心をするまでは大変悩みました。同級生に「村山君あの頃暗かったね」と今も言われるぐらいですので推して知るべしですね。(笑)
ここでも何か素晴らしい理由があれば良いのですが、本当のところ、辞めようと思った動機は、とっても個人的かつ青臭いものです。私がスタンフォードに在学していた1994年―1996年という時期は、インターネットを軸に何か「新しいこと、大きなことが起きそうだ」、というのが毎日感じられ、そんな中で起業を志す同級生、他の業界からIT関連の業界に移る同級生が数多くいる、といった状況でした。そんな中で、「自分で選ぶ人生」を生きるって良いなあ…と思うようになったこと、「金融」に興味が薄れ、むしろ「経営」に興味を持つようになったこと、テクノロジーを使って何かを生み出すってなんて素晴らしいんだ、という思い、そして子供の時に植え付けられた「人と違う事をしたい」という欲求。あとは、こんな海も山も近くにあって、閉
塞感の無い環境で暮らしたい、という気持ち。これが実は一番大きかったかもしれません。(笑)
今にして思うと、こんな程度の理由で良く人生をリセットしようと思ったものです。(笑)でも「リセット」というのは大きいかもしれません。それまであんまり人生とかキャリアについて考えずに「何となく」生きて来た自分が恥ずかしくなって、「ここでやりなおそう」と思ったのでしょう。ただ、本当に覚悟を決めるまでは物凄く悩みました。アメリカで自分が本当に通用するのか、銀行の友人を失うのではないか、といったことにつき毎晩考え、結局卒業式の翌々日まで悩んでいたのですが、最後は「ここで断念したら一生後悔する」「ダメでも命まで取られる訳じゃ無い」と自分に言い聞かせ、踏み切りました。
そんないいかげんな動機でも私を励まし、支えてくれたビジネススクールの友人、教授、そしてスタッフの人達がいたことは非常に恵まれていたと思います。
(I)そしてシリコンバレーで就職されたわけですね。米国企業へ就職するのは大変だったのではないですか?
(M)そうですね。当時私はなんとかしてテクノロジー関連の企業に就職したいと思っていたのですが、今の不景気以上に、その頃のシリコンバレーはエンジニア出身でもなく、しかもアメリカで働いた事もなければ、市民権も永住権も無い外国人が就職するのは難しい状況でした。面接に行って「何で君みたいな人が?」と聞かれればはましなほうで、レジュメを送っても無視される、ことが殆どでした。そのときはつくづく日本の銀行員ってつぶしが効かないんだな、と思いましたが、今思うと私が無謀なことをしていただけなのですね。(笑)レジュメだって日本の説明しにくい銀行業務の話しか書いていなかったわけですから。本当、無謀にも程がある。(笑)
そんな中で、コンサルティング会社だけは多少なりとも相手にしてくれたので、「いきなりシリコンバレーの会社に入れないなら、アメリカの企業を顧客とするコンサルティング会社に入って、実績を作り、機会を待とう」と考えました。それも大手だと日本支社のポジションになってしまうので、リスクは高いかもしれないが、中堅以下の「ブティック」と呼ばれる類いのコンサルティング会社を目指しました。それで最初の職場を見つけた訳です。それから6年かかって、転職1回と失業1回を経て、やっと今、卒業時に憧れていたような仕事をしています。
(I)村山さんの経歴を振り返りますと、金融~コンサルティング~製薬・バイオ業界相手のスタートアップのと多岐に渡っておられます。MBAを取得されているとはいえ、多業種で活躍されるのは大変ではないですか?
(M)「コンサルタントの時にはハイテク、バイオ、自動車、クレジットカードなどの消費者金融、プライベートエクイティ、スナック菓子、レンタルビデオチェーンのお客さんの仕事をしたのでいろんな業界を渡り歩いたことになります。
専門分野を究める」のがプロの定義なら、私はアマチュアの見本です。だからあんまり偉くもならないままここまで来ています。このインタビューも、JTPAの皆さんには反面教師として読んでもらった方が良いかもしれない。(笑)本当に載せるの?
ここまでなんとかやってこれたのは、ランダムな好奇心と想像力、どんな地道な仕事でも面白がってできること、「MBAだから」と気負わないことでここまで来たような気がします。適応能力があるというよりは、どんな場面でもマイペースでいられる、といったのが理由でしょう。あとは、クイックラーニングとでもいいましょうか。コンサルティングで違う業界の仕事をするときに、インターネットやら雑誌やらを集中的に読んで大掴みに理解するのは上手になりました。もともと興味のあることはマニアックに「知る」のが好きなので、最新の技術動向などは仕事は関係なく追っかけています。少々片寄りはありますが。(笑)
もうちょっと真面目なことを言えば、仕事の目的を考え、それを実現するための最適な経路を考え、それを一緒に働く人にコミュニケートする、ということはわりとできる方かな、と思います。スキルらしいスキルはそんなもんでしょう。面白いもので、このスキルは中学、高校での文化祭への参加、大学のゼミ活動運営で使い始め、銀行で仕事として学んだことがベースになっているような気がします。MBAで学んだ事は、それら経験で身に付けたことをより広いオーディエンスに適用するのに役立っているのかな、と思います。
(I)さて、時間もなくなってきましたので、村山さんの今後の目標を聞かせていただけますか?
(M)これまたカッコイイ答えはできません。(笑)最近気が付いたのですが、今の自分は、ビジネススクールにいたときに「夢」だと思っていたことを形の上では実現しています。アメリカに残る事。永住権をとる事。アメリカ人と一緒にアメリカ国内でプロフェッショナルの仕事をすること。そこで「now what?」と思ってしまいました。「Self-Reinvention」という言葉があるのですが、これまで私は色んな人、色んな機会との出会いを通じて、ある種opportunisticに何度も自分をreinventすることはできたと思っています。ただ、それが何に向かっているのかが確固としているわけではありません。ただ、今の仕事を非常に面白がりながらできていて、何がしかの貢献もできているというのは、自分が漠然とではありながらも持っている指向性とのアラインメントが取れているからだと思います。
何だか韜晦じみてしまいましたが、今はこんなところで勘弁してください。
(I)では最後に日本にいる皆さんに、そしてシリコンバレーで活躍中の日本人の皆さ
んに何かメッセージをお願いできますでしょうか。
(M)決して私を参考にしないように。(笑)私はそれなりに面白がりながら生きてい
るつもりですが、決してお勧めできる生き方ではないと思っています。
「自分がどんな時代に生まれるかは決められない。自分に決められるのは、自分に与えられた時間をどう過ごすかだけ。」というのは「Lord of The Rings」にあったセリフを引用してカッコ良く締めくくろうかな、とも思ったのですが、柄じゃないですね。
「ダメでも命まで取られる訳じゃ無い」とだけ言わせてください。
(I)あと一歩何かに踏み出せない人もたくさんいますが、村山さんのお話は そんな人達に勇気とチャレンジ精神を与えてくれるのではないでしょうか。本日はお忙しい中、長い間ありがとうございました。
(M)本当にこれ使うの?それはさておき、こちらこそありがとうございました。

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