「エンジニアやサイエンティストから別のポジションへのキャリア構築方法」というテーマでパネルディスカッションを行いました。


■関連ページ
アンケート集計結果
「シリコンバレーの雇用状況」
IMCA America, Inc., Managing Director & CEO, Tom Tateno

2002年8月28日(水)午後6時から9時までシリコンバレーで働くエンジニアやサイエンティストのための第1回JTPA(Japanese Technology Professionals Association)ネットワーキング・ワークショップが、シリコンバレーを本拠とし、950 Page Mill Road, Palo Altoに事務所を有するウィルソン・ソンシニ・グッドリッチ&ロサティ法律事務所で開かれた。

6時からネットワーキングが始まり、アドビ・システムズ、サン・マイクロシステムズ、アップル・コンピュータ、オラクル、サン・ディスク、ロッキード、といったハイテク企業から約50人のエンジニアやサイエンティスト達が集まり、楽しくネットワーキングが行われた。


今回のテーマは「エンジニア・サイエンティストから、マネジメント、マーケティングやセールスへの転進。異なる役職に必要なスキルは何か、それをどうやって身につけたのか、また新たなポジションに就いてみて、エンジニア・サイエンティストだった時には見えなかった発見は何か?」
■ パネリスト
Vikki Yamazaki氏
ブラウン大学のバイオ・ケミストリー専攻で、大学卒業バイオ・フィジックスでスタンフォード大学から博士号取得、Hyseq Pharmaceuticals等でのbio-physicistから、もうすぐ第一回目のベンチャーキャピタルからの増資をクローズするスタートアップ会社、Proteomic Systemsのコア・メンバーへ転進。

Daisuke Terasawa氏
16歳から米国に滞在、スタンフォード大学電気工学科で学位と修士課程を卒業後、S&P500の大手ワイヤレス関連企業で、ASICエンジニアから30名のエンジニアを統括するディレクター・エンジニアリングへ転進。
南 博剛氏
日本大学理工学部卒、東京エレクトロンにASIC半導体のデザイン・エンジニアとして勤務した後、Global Management Major at Japan-America Institute of Management Scienceを経て米国の半導体設計ソフトウェア企業に移り、現在はInTime(半導体設計用ソフトウェア)の日本向けのビジネス・ディベロップメント・ディレクター。
竹内健氏
東京大学物理工学科修士を卒業後、東芝でエンジニアとして半導体(フラッシュメモリ)を立ち上げ、現在はスタンフォード大学ビジネス・スクールの2年生。
■ 各パネリストのプレゼンテーション
Vikki Yamazaki
東京生まれ。Vikki Yamazaki氏が6歳の時、家族がサンノゼのウィロー・グレンに引越。ウィロー・グレン小学校等を経て、ブラウン大学でバイオ・ケミストリーの学位を取得、その後スタンフォード大学にてバイオ・フィジックス博士課程終了。
スタンフォード大学では、「世界で2−3人しか理解出来ないようなことをするのではなく、応用研究をしよう」と考え、Department of Radiation Oncologyで、20歳以前に発病する癌の基礎研究に携わる。博士課程取得後、Hyseq Pharmaceuticals社に入社。同社では、データ・マイニングを担当し、protein therapeuticとmembrane targetを特許化。
この頃にスタンフォード大学の同期の友達とその同僚がProteomic Systemsを起業。彼の論文からそのMembraneChip技術に興味を持ち、シード段階の資金調達が終了したばかりの初期段階でProteomic Systemsに入社。転職した理由は、もっとチャレンジが欲しかったから。たまたま適した時に適した場所にいたという「運」、自らの技術に対する「熱中」が助けとなった。
2000年11月に設立されたProteomic Systemsは、MembraneChip Drug Discoveryに関してenabling technologyを有しており、バイオ・テクノロジーの分野で世界的なリーダーのBill Rutter, Ed Penhoetなどから$1,000,000のシード資金を調達。科学者として実験室から働き始め、特許出願などを行ったが、その頃に会社の2人の創設者が「Vikkiは人材採用、資金調達などに関わっているほうがより役に立つ」と判断。現在資金調達のため、プレゼンテーションを作成したり、プレゼンテーションしたり、ベンチャー・キャピタリスト達と接したり、デュー・ディリジェンスに対応している。
結論としては、チャレンジを克服するには、人生に対して良い態度を持つこと。楽観的で、自分自身を信じること。融通性を持つこと。間違いを恐れず、自分を笑えるようになること。純粋な研究者から現在に到った変化を見ると、「自分が誰であるか?」が良く分かった。
Daisuke Terasawa

ワイアレス通信を主な業務とする企業に勤務。Terasawa氏が関わっているのはCDMA Technologies、携帯電話、および、基地局用のチップの開発で、パソコンで言えばCPUの部分にあたる。
アメリカには既に15年ほど住んでいて、父親の仕事の都合で16歳の時からアメリカに滞在。その後、アメリカの大学に進学することになり、スタンフォード大学電気工学科で学位と修士課程を終了。いつか日本に帰国しようと思ったこともあったが、結局ずっとアメリカにいる。
現在の会社に入社したのが1995年で、当時は今ほど知名度は高くなかったが通信関係の分野では会社の名前は知られていた。入社当時も社員が3000人ほどとかなり大規模で、社員番号が3301番。入社以来、同社のエンジニアとしては珍しく、2度にわたって地方オフィスに勤務する機会があった。 2度とも、最初に異動になった時にはオフィス自体まだ形ができていない段階。仕事のメインは一応エンジニアリングであるにもかかわらず、オフィスの立ち上げ全般に携わる。オフィスが大きくなっていく過程にかかわることができた事は、非常によい経験となった。 また、東京、シリコンバレーの2箇所で、周囲にほとんど同じ会社の同僚がいないという状況におかれて、必然的に社外の業界で起きていることに対して触れる機会があった。
シリコンバレーのオフィスは実質的には99年に設立され、それと同時に移ってきた。当時はシリコンバレーの景気も最高潮の時期でもあり、開発センターを作ろうという話はでていたが、やる仕事がないとオフィスを作れない。そこで当時の上司と2人で言い出しっぺになってある新しいプロジェクト立ち上げを提案した。 このプロジェクトは次世代携帯システムのチップの開発にかかわるものだった。次世代携帯システムといってもいろいろあり、社内でもプロジェクト立ち上げに対して賛否両論があった。
幸いなことにプロジェクトはうまくいって、シリコンバレーのグループも30人ほどにまで成長した。それに加えてシリコンバレーのベンチャー企業を買収したということもあり、現在キャンベル・オフィス全体では大体150人になっている。
プロジェクトのスタート当時から一緒にやっていた先輩・上司が、プロジェクトがうまく立ち上がったので、学校に戻って勉強するため休職することになった。そこでTERASAWA氏がそのあとを引き継ぐ形で、ASICシステムエンジニアリング部門のシリコンバレー部隊のリーダー的な役割を担うことになった。これが約一年前。
こうした経緯なので、自ら「エンジニアからの転身」を意識して行動した結果マネージメントへと移ったわけではない。ただ、いま自分の経験をふりかえってみると、社内ベンチャー的に自分から積極的にアイディアを提案して行動を起こしたことがいろいろな面でプラスになったと思う。
もちろん大抵のアメリカのハイテク企業がそうであるように、純粋に技術畑でマネージメントの責任を全く負わずに上に上がっていくという道もあった。たとえばVice President-Technology等の肩書きを持ってエンジニアリングに専念して、社内外にも名前を知られるような人も社内には何人もいて、ワイヤレス通信の世界では誰でも知っているほど著名な人も多い(CDMAの技術のパイオニア、もと大学教授、など)。エンジニアとしてはそういう道をたどるのにあこがれる部分もあった。マネージメントの方の責任を担っていく道に進んだことで、エンジニアとしてのスキルアップを多少犠牲にした部分もあることは否めない。
ただ、組織運営には別のやりがいがある。Regional Officeの立ち上げに2度かかわった経験、また日本駐在の際にエンジニアリング以外の面に触れる機会があったことなどで、マネージメントに対する興味、そして少しながらも下地ができたことはプラスであった。
現在はRegional Office だということもあり、扱わなければいけない仕事の種類が多岐にわたる。 もちろんすべて自分で全部やるわけでない。Human Resources(人事)、Facilities(施設)、Admin Services、Finance (財務)、ITなどの社内の他部門と連携をとり、及び自分のグループのマネージメント・スタッフ(マネジャーや秘書など)と協力して、全体がうまく機能するように舵取りする。 エンジニアたちのモーティベーションをどう高めるか、働きやすい環境を整える、などに集約される。
南 博剛氏

大手半導体製造装置メーカー、 東京エレクトロン株式会社で ASIC設計やEDAツールのアプリケーション・エンジニアとして8年勤務後、マーケティング・スキルと英語の必要性を感じ、ハワイにあるJAIMS(日米経営科学研究所)にてGlobal Managementを専攻。卒業後、スタートアップ企業High Level Design Systems Inc. にてエンジニア職を得る。その後,96年には勤務先が業界最大手のCadence社に吸収合併される、後にキャリアチェンジを求めて退職。2001年11月より現職。
1986年,エンジニアリングにおけるキャリアが東京エレクトロン株式会社で始まった。東京エレクトロンでは、EDA(electronics design automation)という半導体製造を支援するソフトウェア(CADの一つ)を販売することと、チップを作ることの両方に携わっていた。時代が古いが、例えばINTELのチップだと80286とか、386などの周辺チップをコンパクトにするような仕事で、チップセットを作っていた。386以降は、メモリー以外の周辺を3つか4つにまとめる仕事だった。
当時、アメリカはPCが全盛であり、日本の多くの企業がPCを作ってアメリカ市場に入りたがっていた。その時にチャンスが来て、アメリカでチップ設計をすることになった。今は買収されてないが、アリゾナ州に当時あったVLSI TECHNLOGYという会社でチップセットを半年間エンジニアとして作る。
最初は英語もあまりできず自信がなかったが、半年後にはチームにも助けられ自信がつき、エンジニアリングとしてアメリカで仕事ができるのではないかと考え始めた。その後日本に帰国したが何をやっても日本の仕事がつまらなく見えた。アメリカのエンジニアリングの環境、その他やったこととか全てが良く思えた。例えば日本だと付き合い残業もあるが、アメリカにはなく、自分の好きな時に来て、プロジェクトのスケジュールさえ守ればいつでも休みが取れた。言いたいことはいつでも言えたし、年功序列がなく、自分のキャリアや仕事の分だけで評価される。またアメリカに来て仕事がしたいという思いが日本で募り、無謀にもアメリカへの転職や留学を考えるようになった。
1993年にハワイにJAIMSというビジネス・スクールで10ヶ月のコースに応募。就職活動も入れて1年くらいだったら適当ではないかと思いハワイに行く。その際2つの目標があった。英語の上達とマーケティングスキルの獲得である。卒業時には、日本が大不況になっていたがシリコンバレーの景気は上り調子だった。履歴書を書いて日本企業とアメリカ企業に出したが、アメリカのほうが履歴書に対するレスポンスが良く、シリコンバレーのスタートアップ企業に50番目の社員として入社。創立後1年少し経っており、ちょうど収益が出てきたくらいだった。
以前働いた日本の会社が大企業だったので、スタートアップ企業では体験する全てが毎日おもしろく勉強になった。しかし、嫌だったのが、英語も勉強したし、技術も知っていたのに、日本の企業が来るとどうしても便利屋のように通訳をさせられアテンド(付き添い)を全部させられることだった。日本のサポートをやめようとある時から決め、日本人以外のカスタマーのサポートをしたいと要求して仕事内容を変えた。
会社自体は非常に上手くいっており、マーケットも大きくなりつつあり、セールスも上がっていた。そんなある日会社に行くと、全社会議が招集され、Cadenceに吸収買収されることが発表された。買収とともにCadenceに移り、senior application engineerになった。Cadenceでも日本以外を対象にする仕事をした。それはそれでおもしろかったが、目標とするマーケティングには全然近づいていなかった。チャレンジしたが、アメリカ人のマーケティングのスペシャリストと比べると上手くプレゼンテーションができない。きれいな英語でプレゼンできないと難しいことを実感した。
その時に思ったのが、「キャリア・チェンジにはやはり日本人なので日本のマーケットを対象にするしかないだろう。」ということ。そのころちょうど、スタートアップの会社からビジネス・ディベロップメントのポジションで誘いがあった。そのスタートアップのCEOがアメリカで一番最初に入社したスタートアップのCEOで、自分を覚えていてくれて電話が入った。そこで会社を移り、テクニカル・マーケティング、セールス、ビジネス・デベロップメント、日本やアジアの代理店の立ち上げなどに従事した。
やはり日本のバックグランドがあったからできたと思う。今でもよく感じるのが日本人は自分しかいないので、会社で自分に変わる人がいないこと。今はEDAの会社に席を置いているが、日本語ができる、日本の文化やカスタムを知っているので、いろいろな会社に転職できるのではないかと思う。最初はその部分が嫌で、よさには意外と気づいていなかった。ちょっとした発想の転換とか、自分自身が持っている一番強い部分を生かせばいろんなことができると学んだ。
竹内健氏
スタンフォード大学ビジネス・スクールの1年生を終わったばかり。何故エンジニアがビジネス・スクールに行ったのかというと、セールスやマーケティングや企画にキャリア・チェンジをしたいからではなく、エンジニアとして幅を広げたいから。生まれも、育ちも、妻との出会いも結婚も東京。30数年間日本のみで過ごし昨年の6月にスタンフォード大学にきた。
東京大学物理工学科修士課程を修了。従業員の10万人の東芝に入社。9年かけて入社当時全く世の中になかったフラッシュ・メモリー(メモリー・スティック、スマート・メディア、コンパクト・フラッシュなどのメモリー・カードに入っているメモリーで、デジカメの記憶媒体として使用されている。)を開発メンバーとして立ち上げた。この分野では東芝は世界のトップ・メーカー(50%以上のマーケット・シェア)となった。その後会社からの派遣で昨年スタンフォード大学に。
一生エンジニアリングに関わり合いと思っているが、単に研究室の中でだけでなく、マーケットを見ながら製品を作り上げていきたい。ポジションはその時その時に一番あったのを選びたい。
大学卒業後は、技術で良いものを作ればお客様は買ってくれると思っていたが、もしエンジニアにビジネスが見えていたら、もっと良いものを作れるのが分かった。例えば、技術を研究室で作れば学会で発表できるが、実際マーケットに届けるには、ビジネスの人々に分かるように説明しなければいけない。会社の中で事業として成り立たせようとすると、まずコスト、会計などが分かってないといけない。会社の全ての人がエンジニアではないので、ビジネス用語がエンジニアにとって宇宙語なように技術用語もビジネスの方々にとっては宇宙語。
ビジネス・スクールで一年経過し、知識がついてきた。会計やバリュー・チェーンなど実際勉強してみればそんなに難しくない。コストなどの内容も理解できる。大学の知識で説明できる。特に印象に残っているのはnon−market issue(市場以外の問題)に関する授業。例えば国の規制や訴訟問題などの法律などで、ハイテク企業でもそれらが必要。アメリカで何故弁護士事務所が大きいかわかった。世界で事業をするために必要なことだと思う。
得たものは「人」。日本の大学と違い、アメリカの大学では先生と学生は近い。仲良くなった先生がいて、知り合いの先生を捜してくれたり、卒業した後も関係が続けられる。
■ Q & A
質問:「Terasawa-さんは16歳でアメリカに来て大学を受験、その後アメリカの大学のエンジニアリング・スクール(工学部)に行くときなど、日本に戻れる機会があったはずなのに何故アメリカに残ろうと思ったか?」
Terasawa:「大学に入る時点、大学院に入る時点、就職する時点。日本に駐在していた時点。そのたびにアメリカを選んだ。日本に残る選択もありアメリカに戻ってきたが、特にアメリカか日本かとは考えず、自分にとってよいものを選んだら、たまたまいつもアメリカになっていた。大学に入るときは日本とアメリカで学期の始まり方が半年ずれていたし、アメリカにいた方が楽だった。大学院に関しても同じ。何かと楽で、そのままいればかなり質の高い教育が受けられたし変わる必要がなかった。就職するときも、日本の会社からもオファーがあったが、いろいろと考えて、アメリカに残った。」
質問: 「修士や博士は必要か?」
Vikki Yamazaki:「bio technologyではPh.D.はかなり必須。」
Terasawa: 「一概に言うのは難しい。Ph.D.を持っていると専門性が高まりすぎて分野が狭くなることもある。例えば履歴書がPh.D.である研究をしたとなっていると、それ以外の分野では採用することはあまりない。社内でPh.D.を持っている人は多いものの、入ってしまえばあまり関係ない。会社によるし、いろいろある。ケース・バイ・ケース。」
南:「スタートアップでは学位は関係なく、どれくらい仕事ができて、どのくらいのアウトプットが出せるかのほうが評価されると思う。しかし、大企業では、確かにキャリアを見てみると、それなりの学位を持った人が就くポジションというのがあるようだ。」
質問:「マネージメント・ロールにつくにあたり、勉強しておくべきことは?」

Vikki Yamazaki:「技術分野にいるので、技術がわかればわかるほどいい。ビジネスについてはその気になればすぐキャッチアップできる。それより、技術を深掘りする方が重要。ジャーナルを読んだり文献を読んだりして知識を深めたり。」
Terasawa: 「勉強したいことだらけで、竹内さんの話を聞いて「ビジネス・スクールに行きたいな。」とも思った。しかし実際の課題は、「いかにして技術的なことから遠ざからないか。」ということ。デイリーの仕事では技術の細かいところに踏み込んでいけないし。Ph.D.を取り立ての人が入ってくるとその人が一番その技術のことを知っている。」
南:「一番大事なのは「タイム・マネージメント」。エンジニアの時はある程度時間を自分で管理できるが、セールスでは、エンジニアリングのどこが遅れているとか、カスタマーからこういう要求が来ているとか、マネジャーがどうとか、社内でそれをプレゼンしろとか、他の人とインタラクティブなところがかなりたくさんあり、いろんなことを同時に平行しながらできるタイム・マネージメント・スキルが必要。9時から5時というような決まった時間でなくても、いろんな空いた時間を利用したり、週末に家から電子メールを送りコントロールしたり、電話を入れたりとか。」
質問:「日本の会社は技術者とそれ以外がまったく離れている。アメリカは技術者がセールスやマーケティングなど他の部門へ流動する。どちらがよいのか?今後どうなるか?」
竹内: 「日本企業からエンジニアがビジネス・スクールに来るのは異例だが、最近では途中で他部門にいったり、マーケティングに行ったり、そして元のエンジニアリング部署に戻すということもある。全体的な流れとしてはアメリカ的に変わってきているのでは。」
南:「どちらが良いかは難しい。アメリカのほうがエンジニアリング、ビジネス、セールスなどのボーダーを感じず、ファジーな部分が多い。セールスでも「何故そんなに細かいところまで聞いてくるのか?」と聞きたくなるくらい細かい技術的なことを知りたがる人もいる。アメリカのセールスが何故一生懸命エンジニアリングのことも知りたいかというと、売り上げを上げるプレッシャーが大きいから。特にスタート・アップの会社は四半期ごとの数字を出すことが一番の使命。どれだけ売れたかが給料に影響する。小さい企業であっても大企業であっても利益追求にベクトルが向いている。日本でもあるが、アメリカでは直接雇用と給料に繋がっている。」
質問:「南さんは最初の会社のCEOに声をかけられ現在の会社に移ったということだが、ある程度そこに好ましい関係があったからだろう。何か意識して努力してきたことはあるか。」

南:「大企業の副社長やエグゼクティブで、何度も日本に出張したような人だったら、日本人の知り合いもいるだろうが、私の会社のCEOは、おそらく身近にあまり日本人の知り合いがいなかったと思う。おそらく私が最初に一緒に仕事をした日本人だろう。人間関係が大事だとは思う。CEOは少し変わった人だった。 最初の会社は50人のスタートアップとしては非常に素晴らしいオフィスだったにもかかわらず、ジャージ姿でうろうろしていたおじさんがCEOだった。会社はCadenceに買収された後もすごく成功している。ただ、彼は今でも見た目はそのころのまま。シリコンバレーでは変わり者に気をつけよう。」
質問:「Terasawaさんにとって、長い間同じ会社で働いている長所と欠点は?」
Terasawa: 「自分の会社では7年勤めるのは珍しくない。よい技術があるし、辞めてほかにいく会社もあまりない。それに7年といっても場所も変わり、仕事も変わった。同じところで同じことをやっていたわけではない。」
質問:「男女差別はないか?アジア人女性として甘く見られることはないか?」
Vikki Yamazaki:「私のいる技術分野ではない。投資家であるベンチャー・キャピタルとの対応では覚えてもらえるという利点がある。他の職種では感じるのかもしれない。」
質問: 「30人の部下のエンジニアへの社内的な教育は?」
Terasawa: 「会社が大きいので教育はかなりしっかりしている。スタンフォード大学のクラスが取れたり、社内トレーニングのクラスがとれたり、サンディエゴのほうに5−6,000人の従業員がいるので、常に社内トレーニングがある。」