問うて曰く、Ph.D.とは如何なるものぞ。
答えて曰く、足の裏についた米粒の如きものなり。

「取らないと気になるが、取ったところで食えるものではない」
言い得て妙とは思いますが、これでは身も蓋もないので、そんな米粒も飯のタネになっているということを、ここでは一つ。
 


大学教官からスタートアップへ
私がシリコンバレーのスタートアップに参画するきっかけになったのは、東北大学で研究していたテーマが、チームにとってのコアテクノロジーであるということと、スタンフォード大学でvisiting researcherをやっていたときのつながりです。
国立大の教官は比較的安定した仕事で、そのポストを離れてスタートアップに参画するには、やはり決断が必要でした。そのために、CEOからビジネスプランの説明を受けるだけでなく、ベンチャーキャピタルの担当者を紹介してもらい、ファンディングを得るために会社としてクリアすべきマイルストーンなどを質問しました。その結果CEO、VCからの回答がそれほどかけ離れておらず(ただし今となっては2年前とずいぶん状況も変わっていますが!)、その中で自分の貢献できる部分がはっきりしていたので、ここならば自分の能力を最大限に発揮でき、かつそれを通じて、自らのキャリアプランにとってプラスになるものを得られると考え、転籍することにしました。
転籍について「ずいぶん冒険ですね」と言われることがあります。私自身は、いろいろな環境で経験を積みたいと思っているので、自然な流れではあったのですが、冒険は十分な準備を積んだ上でなければ、船を漕ぎ出すわけにはいきません。その点で、私にとってのPh.D.は冒険の準備の一部分であったと言えると思います。
スタートアップでのPh.D.の役割
私が働くLightbit Corporationは、次世代光通信ネットワーク向けのサブシステムを開発する、スタンフォード大学からのスピンオフカンパニーです。大学からのスピンオフのミッションが「“大学発の可能性”に実現性(=信頼性・生産性)を付加していくプロセス」であるとすれば、Lightbitはまさにそのようなプロセスの真っ只中にあります。もちろん事業性も大事なファクターですが、ここではエンジニアリングサイドからの視点に限らせてもらいます。
光通信ネットワークのように確立された産業の中で、可能性から実現性へのプロセスを推進するにあたっては、さまざまな課題が待ち構えています。大学の研究では、極論すれば“10個作って1個動いたものが1時間動作”すれば論文を出せるかもしれません。もちろん“最初の1個”を動かすまでの研究はとても重要で、それこそ“大学発の可能性”やPh.D.の研究に値するものだと思います。一方、スタートアップでは、“10個作れば9.9個動き長期間動作保証”というレベルに持っていかなりません。
Lightbitの技術開発における私のポジションは、プロダクトのコアとなり性能を決定付けるoptical chipの開発なので、チームに参画当初、この開発に対する期待(とプレッシャー)をひしひしと感じました。正直なところ、私の研究も「10個作って1個」より少しましと言ったレベルだったので、そこから性能が高いものを再現性よく実現する、というレベルに引き上げるためには、理論解析、作製工程の確立、作製したchipの性能・信頼性評価というループを繰り返すことや、新しい技術の導入が求められました。このように、プロダクションレベルにたどり着くための課題を解決するプロセスでは、その技術分野について理論から実践に亘っての理解が必要となり、このときPh.D.が果たす役割としては、次のようなことが考えられます。まず第一に、スタートアップの限られた資本(=時間)の中で技術開発を行うためには、専門分野に対する知識・経験を持つ即戦力としての役割が期待されるということ。さらにプロとしてチームに参画するので、自立した研究推進能力が求められますが、このような資質は、Ph.D.コースでの日々の研究を通じて会得できるものであるはずです。
また、Lightbitのような大学からのスピンオフのスタートアップでPh.D.が果たす役割としては、必要とされる基盤技術が大学の研究室で蓄積されたものであるので、そこで研究を進めてきたPh.D.が技術開発において果たす役割は必然的に大きくなります。「Ph.D.は専門性が高すぎて・・・」という否定的な意見が聞かれることがありますが、Ph.D.の能力を活用できる技術開発の態勢を整え、革新的な技術開発を行うことこそ、企業が取り組むべき課題であると思います。
参考までにLightbitでのPh.D.の割合は、コアテクノロジーに関わるグループでは80%、エンジニア全体では42%、チーム全体では38%です。
米粒と一緒に得たもの
現在の私の仕事の内容は、Ph.D.を取ったテーマとはかなりかけ離れたものです。大学のスタッフになって、ボスの教授がリードする研究テーマにも携わるようになり、これが今のLightbitでの仕事に直接つながっています。この二つのテーマは、研究分野が離れているだけでなく、研究のphaseという点でもずいぶんと違っていました。
Ph.D.のテーマは、ほとんど手付かずの新規の分野だったので、原理の解明からスタートし、研究の進展に伴いチームを形成し、国内外の研究者の理解を得ながら、アプリケーションを開拓するというプロセスの中で、プロジェクトの推進ということを意識して研究を進めたことが、研究者としてプラスになったことです。余談になりますが、研究の初期は学会に行っても、私の発表の直前で会場から潮が引くように人がいなくなり、寂しい思いをしたものです。
一方、現在のテーマはその有用性が明らかで、世界中にライバルがいるテーマなので、競争の中でオリジナリティーを確立していくということを経験し、多くのライバルがいることのプラス面の一つは、人脈の形成が進んだことでしょう。Ph.D.の研究テーマには、まだやってみたいこともあったのですが、Ph.D.取得を機に思い切って(自分にとって)新しいテーマに取り組んだことが、今のポジションにつながったということになります。
そして今、アカデミアを離れインダストリーで働く中では、プロダクションレベルに技術を引き上げるというチャレンジを通じて、自らの専門分野に関する知識・経験を深めていますが、それとともにチームでの協働を通じた経験も得難いものです。スタートアップを構成する重要な要素に「暗黙知の集積」があります。事業を推進するために必要な専門能力・知識を持つ人材を結集し、それぞれがそのスキルを持ってチームの成功に貢献するという意味で、プロ集団の形成と言い替えてもいいでしょう。スタートアップのようなコンパクトな集団では、プロダクション、マーケティングといったグループとのインタラクションを密に行うことでき、そこから技術に対する新しい視点に気付かされています。
と、これまでいくつかの研究プロジェクトに携わってている中で、Ph.D.のタイトルがなければならない場面もありました。たとえば、大学教官のポスト、USビザ(O1, visa for aliens of extraordinary ability)の取得といったところでしょうか。しかし、キャリアパスの形成と言う点では、タイトルそのものよりも、プロジェクトを通じた経験がパスの選択肢を広げる上で重要であることは言うまでもありません。
さて、そこで、
いま一度、問うて曰く、Ph.D.とは如何なるものぞ。
答えて曰く、研究者のパスポートの如きものなり。
パスポートは、その人の価値を決めるものではありませんが、なければ行けない土地もあります。ただし、パスポートが行き先を決めてくれるわけではなく、どこでどんな経験ができるかは、その人次第です。研究の中で何を学び・身につけるか、またそれを通じて築き上げる人とのネットワークによって、将来の可能性が広がっていくことでしょう。このようなことは、研究者であるなしにかかわらず、常に意識しなければならないことですが、大学院での研究期間は、かなり自由な立場で取り組めるときであるはずです。
新たな可能性を求め、さまざまなところで経験を積み、パスポートにスタンプを増やしていくような研究者が、日本の大学からも次々に飛び立つとともに、またそのような若手が、存分に実力を発揮できるシステムが形成されることを願っています。